今回のお題は河野裕さんの「昨日星を探したいいわけ」から着想を得た問いです。
あらすじは各サイトに載っていますので割愛しますね。
この本は単行本と文庫本両方ありますが、個人的には単行本の表紙がきれいで物語を描写しているようで好きです。
今回の問いの着想を得たのは少数派の緑色の目の生徒の存在と、障害を持ち、車椅子でしか生活のできない生徒の存在だ。物語の中では「拝望会」という歩行イベントがある。途中の休憩所でリタイヤしてもいいのだが、この行事の採取目標はスロープのない階段を上った山の上にある。そしてそこはかつて黒い目をした人が緑色の目の人を追い詰めた歴史的経緯のある場所でもある。そこで、黒色の目をした健常者の先生は全ての生徒が楽しめるようにと別ルートの提案を行う。それこそが問題だったのだ。
端から見るとその人たちのための行動に映るかもしれないが、当人たちからすると自分たちが普通でない存在として”わたしたちのためにわざわざ”してもらっていることが、腫れ物扱いされているようにも感じてしまうのだ。
障害を持つ人や、少数派の人にだってもちろん選択の権利はある。そう、あってしかるべきなのだ。ただ、それが多数派の善意によってねじ曲げられてしまい、選択の幅を狭められてしまう。これは差別ではないのだろうか。
これは小説の中だけではなく現実世界にもいえることであると思う。例えば、障害を持った人が助けを求めている場合、それを助けるのはよいことだと思うが、「この人は障害を持っているからこれはできない。だからやっておこう」といった行動は間接的に差別につながるおそれがあります。
差別とは感覚的にも根付いてしまっている部分もあると思うので、簡単に完全に撲滅というのは難しいかもしれませんが、「今、自分の行動は差別になっていないだろうか」と立ち返り考えてみることは差別を無くす第一歩になるのかもしれません。