KoTomの徒然

普段考えていることを中心に、自由気ままに書いています。

”物語を読む”とはどんな行為なのか(前編)

Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.

Charles Chaplin(1889~1977)

(人生は近くで見れば悲劇であるが、遠くから見れば喜劇である。)

 

こんにちは。物語を読む、俗に読書という行為がある。おそらくほぼ全ての方に経験があるだろう。読書という行為は一体何なのであろうか。それについて個人的な見解を述べる試みである。

この記事は名古屋大学読書サークルhttps://profile.hatena.ne.jp/meidaidokusyo/で書いた同タイトル記事とほぼ同じ内容になっている。そちらでは「なぜ読書をするのか」ということについて考えた記事や、「読み方抗争」というストーリーに焦点を当てて読む読み方と、文学性、文字の力に焦点を当てて読む方法の対比をした記事が載っている。読書の楽しみ方という観点ではそちらを参照いただきたい。*1

前編の内容は「なぜ読書をするのか」の読み方3に近いため、併せてそちらを読んでいただけると理解が容易いであろう。

記事に入る前に先に断っておくが、本稿は断定的で、読者の反感(正確には事実への拒絶感)を感じさせるかもしれないがご了承いただきたい。

 

前置きが長くなったが、さっそく本論に入っていこう。

本を読むということは、登場人物の人格を味わう、或いは絶対神としてそこにたたずむことである。

人によって差異はあると思うがこのどちらかであると思う。まず、前者についてなのだが、登場人物に感情移入するのが得意な人に向けた言葉である。あなたは主人公がなぜ楽しんでいるのか、なぜ苦しんでいるのか、自分ではない別人格の感情を、感情だけでなく生い立ちから性格まで十分に思考を巡らせた上で、存分に味わっているのである。当事者ではない、フィクションだということを分かりながらも、いや、ときにはそれすらも忘れて、創られた人格に浸っているのである。

後者は感情移入が苦手な人に向けたものである。登場人物がなぜそんな感情を抱いているか分からない(理解できないわけではないが、実感できない)。しかしそこに確実に物語は紡がれていて、人間たちの関わりをそこには存在しない(よって直接的な苦しみ等も味わわない)完全に独立した第三者の視点から見ているのである。そして、物語の進む速さはあなたのページをめくる手で決まる。

物語の筋書きを決める神は作者だ。しかし、読み手もまた神だ。読み手という神は能力には乏しいが、登場人物を管理する力(読む速さや、途中で中断すること)を持っている。また、その気になれば未来予知(結末を確認する)もできる。

 

結局は誰も登場人物に乗り移ることなどできなくて小説という架空の世界にいる人物を愉しんでいるだけなのだ。

さて、今までの流れで、なぜ私が冒頭の引用をしたのかおわかりいただけただろうか。あの言葉は読書の本質に通じる。物事を一番近い距離で感じられるのは当事者しかいない。つまり悲劇は当事者にしか起こりえない。”フィクション”というフィルタがあって、紙の向こう側とこっち側という距離を隔てた関係では物語を悲劇として見ることは叶わない。たとえ向こうでは悲劇だったとしても、我々はそれを少なからず喜劇として愉しんでいるのだ

もちろん読み手が神であるのならば、物語との距離感も読み手の気分によって変えられるわけであって、ある人が悲劇に近い喜劇として読んで、「感動した」と感想を残しても、悲劇から距離を置いた喜劇として読んだ人にはその感想が理解できないのである。

また、感情移入が得意な人は悲劇に近い喜劇で、苦手な人はそれよりは喜劇よりで読んでいる気がする。ただ、どんな物語も読者を介すると喜劇性(後述)が入ってしまうのだ。

 

ここまで読んで、感動的な話で喜劇(滑稽で笑えるようなシーン)はないと反感を覚える方がいるかもしれない。私自身も帯分に「絶対に泣ける」とか書かれるような本を完全な喜劇だと思ったことはない。そこで、最後に喜劇の捉え方について考えよう。

喜劇とは滑稽で笑わせることを目的とした劇(ここでは物語)のことであるが、喜劇の娯楽性や、一時性(少し時間がたてば忘れる)、自己関係性の欠落(自分とは無関係な世界だから笑える)に着目して、喜劇性という言葉を提起する。

小説には喜劇性が存在する。読書が娯楽であるという点は無条件に受け入れていただきたいが、よっぽど読み返している本でなければ、読了して、もしくは挫折してしばらくすれば細部の内容なんて抜け落ちてしまう。自己関係性の欠落は、無関係だから笑えるとまではいかなくても、小説の中で起きた出来事が紙面を飛び出して直接波及してこないのは自明である。

さらに、中村文則さんのR帝国(p352)から引用させてもらう。

人間が欲しいのは、真実ではなく半径5メートルの幸福なのだ。

書籍自体は物理的に半径5メートルに入るかもしれないが(それも読書するときに限った話だ)、紙面の向こう、バーチャルな世界は半径5メートルには入り得ない。それに、この言葉を比喩的に精神領域でも解釈するのなら、気分次第で閉じて物語り世界から距離を置ける状態は、半径5メートル以内と言い難い。読むのがつらくなれば簡単に距離を置ける。(というよりこの状態では既に距離があるといえるだろう)。我々は物語に対して、自分の幸福が侵されると判断すれば容易に距離感を調節できる神的立場である。そして物語の咀嚼には喜劇性を含むのである。

少し焦点を変えると、テレビなどで放送される戦争や災害に当事者意識が持てるだろうか。熱烈な関心が持てるだろうか。画面の先の、その画面すら一存で消してしまえる世界に。

 

理解していただけただろうか。

読書とは自分を神格化させ、喜劇性を持って、登場人物の人格を愉しむ行為なのである。

後編では別の切り口から読書を見ていきたいと思う。それでは後編で会おう。

 

kotom0919.hatenablog.com

 

*1:この記事は物語にあてはまる特徴であるので知識本等は省いて考えている